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2010年7月31日 (土)

今日は頭に来ることの連続だああああ

しかしまた、いっぺんいやって来たもんだなあ。

喜怒哀楽とはよく言ったもんだと思う。

喜んだ分だけ、怒りはひどくなる。

よくもまあ、ぬけぬけと騙してくれたもんだと思う。

まだ実害に遭ったわけではないが、誰のために、こんなに悩み続けたのだ?

当の本人は、まだ自分のスケジュールで物事が動いているもんだと思っている。

お前さん、それはないだろう。

すでに、私のスケジュールは決まっていた。

そこへお前さんが割り込んできたのだ。

お前さんを無視したら、なにい、ホームレスになってしまうだとおおおお、おおおお、おおおお。

「おおおお」の3連発ぐらい、私に責任を押し付けるように、泣いたふりをする。

なぜ、相談もなしに、私の道を邪魔する?

呆れたやつだ。しかも、嘘までついて、だ。

そんなやつを助けるために、私は12時間も悩んでいた。

あははは、ばからしい。

私は、お前なんか、もう知らん!

ホームレスでも何でもなってしまえ、私は怒りまくっていた。

いかん、怒りは私の病をさらに悪くする。どうかすると、大家の二の舞だ。

何しろ、私はいまや、病気のデパートである。

ゆっくりと眠ろう・・・果たして朝は来るだろうか?

2010年7月29日 (木)

ここの工事が終わったらしい。

朝8時半。

代理人がやってきて、工事をするからね、五月蝿いかもしれないけど、今日だけだから。

あ、じゃあ、1階はどうするの?

私は慌てて、階下へ降りた。

すると、工事やさんがメジャーで計っている。

「1階はいつするんですか?今日は2階ですよね?」

「ぇ、1階しかやりませんよ、2回の話は聞いてません」

なにい・・・?

私は代理人である親戚の方に訊いた。

「今日は2階をやるといったじゃないですか?」

「いやあ、1階だけですよ」

「だって、あなたは2階に来て、壁を指差し、このへんからあそこと、手すりをつけますから、と説明したじゃないですか、そして1日、1回で済みますが、我慢してくださいと」

「やらない、やらない、2階はやらない」

そうやら、私の聴き間違いか、彼のいい間違いか、1階と1回、と間違えていたらしい。

おかしいなあと思ったんだよね。どうして2階から先に工事をするのか?

手すりだけで17段もの階段を登れるものなのかと、心配してたんだ。

なーんだ、だったら、なぜ僕ら、2階の住人を慌てて追い出さねばならないんだろう?

私は、漫画を捨てざるをえなかった、一昨日から、ほとんど寝ずに漫画を読んでいた自分に腹が立った。

7年と4ヶ月分の月刊少年マガジン②

7年と4ヶ月分の月刊少年マガジンからの続きです。

http://abil.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-9ef7.html

うわあああ。ここはどこ?

ない、ないではないか?

つい、4時間ほど前に汗だらだら、の、だーくだくで運んだ7パックがなくなっている。

きれいさっぱりだ。

私が唖然とした。

こんな夜中に、いや夜中だからこそだろう、しかし、・・・まあ、見事なアンテナだ。

私はあと7パックを運ぶ気力がなかったので、いやあ、全部運んだら、今日の回収業者が大変だろうと、残りは来週にするつもりだったのだ。

どっちがホントかなあ?

どっちもホント。

じゃあ、明日の空き缶、空き瓶も、きっと誰かが持っていくのだろう。

早めに出してやろうかなあ・・・ふと、上空に目をやると終わった満月と、水色の青空にピンクの朝焼けの雲。

きれいだあ・・・私は、また、シャワーを浴びねばならなかったが、思い直して、風呂に入った。

きょうは全国的に雨が降るそうだ。よかったなあ、漫画が濡れることなく、誰かに読まれるのだろう。そうなったら嬉しいんだが。

7年と4ヶ月分の月刊少年マガジン

できれば全部読みたかったのだが、そんな時間はなかった。

私は読めなかった、バスケットもの、三国志モノ・・・拳法モノなどにすまないと、残念。そう、思いながら、半分を玄関まで降ろしていた。

ふと気がつくと、29日になっている。

おお、あぶなええなあああ・・・朝まで寝てたら、工事関係の方々がやってきて、ひと悶着あるところだった。

夕方まで作業をし、シャワーを浴びて、入眠剤を飲んで、19時30分に眠った。

21時から「アイリス」を見ようと、メザマシをかけていた。

うつらうつらしながら、見てたつもりが、眠ってしまっていたのだ。

時間はたっぷりとお有りなので、玄関に降りるついでに、もう1パックをぶら下げていた。

6か月分、高さにして26センチ、重さはどれくらいだろう、1冊700グラムかなあ、さっぱり分からないが、6冊にしたらずいぶんと重いことは確かだ。

まず、玄関から外へ出す。7パックを全部出し終えたら、ドアに鍵をかけ、フェンスを開けにいく。

さあ、これから、30mから40mでゴミ置き場である。

私は、紐が切れてはまずいと思い、両手で抱きかかえるようにして、7往復をした。

汗ぐっしょりである。

急いでシャワーを浴びて、扇風機を。エアコンを。あはは、エアコンを切っておく馬鹿はいないね、エコなど言ってはおられない、エゴでもないぞっと、ずっと冷やしておいたほうがいいはずだ、と勝手に思い込む。

腹が減ったので、サッポロ一番の「ご当地麺屋さん【博多】とんこつ」ラーメンを食べる。

そのとき、もえないごみがあるのに気づいた。

小さなこ袋ふたつを持って、ゴミ置き場に行ったら、うわあああ。

暑いので続く。

http://abil.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-6328.html

2010年7月28日 (水)

7年と4か月分の月刊誌

私が、西ベルリンから完全に帰国したのは、チェリノブイリ原発事故が起きた1986年の12月23日だった。

何も知らない、ドイツ語を大學では取らされていたが、A,B,C(アー、ベー、ツェー)まで、1,2,3(アイン、ツバイ、ドライ)までと、イッヒ・リーベ・ディッヒしか知らなかった。

出発を決めたのが、1985年9月初旬。引越しの手伝いをしに行った先の社長さんの新宅で、だ。いきなり、外国に1年行って、遊んで来いという話。私はすでに1年間の某写真フィルム関連の会社のシステムを受けていた。そのことは気にしなくてもいいから、行って来いと、うちの社長。

出発したのは、仕事の引継ぎ、パスポートや、飛行機などの関係で、11月13日だったと思う。

約1年ほどだが(ゴールデンウイークに先輩の結婚式をやるので、旅費を出すので帰って来いと言われのこのこと帰ったら飛行機が取れず1ヶ月ほど日本にいたのだ。ドイツ語学校も終わり、一番面白い時期だったのに、悔しかった・・・かな?)、完全帰国して、会社にあった「月刊少年マガジン」を知った。

それを今月号まで欠かすことなく読んでいる。ここに住んでからは、ずっと、捨てずにいたのだ。

その処分をするために、朝から、引っ張り出して、6か月分ずつ紐でくくったが、2009年の分を思わず読んでしまった。

それで、もういけない。

2004年の分はガムテープで4冊ずつまとめ、食器棚の上の棚の柱に使ってる。だから読めるのは2005年から・・・。まず2008年の「海皇紀」だけを読んだ。

それで、2005年の分から「なんと孫六」も読み始めた。1年分読んでは、2つにまとめ、玄関に降ろした。体力がまだないので、戻っても知れてるけど、少しずつ、木曜日の雑誌の分別ゴミの日に出すためにだ。

木曜日に2階の壁壁に、手すりを取り付ける工事をやると聞いたので、その日の朝に間に合うようにと思ったまでのことだったが。

現在、2007年の6月号まで読んだ。

引っ越すというのは大変だ。はたして引っ越せるのかあ・・・。

2010年7月27日 (火)

この屋敷に移り住んで7年と4ヶ月である

2003年夏だったと思う。

私は同じ町内のJR[阿佐ヶ谷駅南口の川端通りのビルの4階に住んでいた。

そこの1階が居酒屋チェーン店だったかなあ。

そこへフラリと飲みに入った。めったに行かない店だ。

すると、25年ほど前から知っている、飲み仲間に出会った。

久しぶり。

私たちは昔話に酔った。

彼は、4,5人の部下を連れて、いや守られて飲んでる風の、商社の会長さんだとか。

もちろんバブルの頃であるし、私もすごくお金を持っていた。

毎晩、会社の近くの女の子のいる店,パブとでもいうのかなあ・・・で飲んでいたのだ。

私はそういう店は好みではないが、会社の仲間がそこに行きたがるので付き合っていた次第。

そういう彼と二人っきりで、こういう安居酒屋で会うとは思わなかった。

突然彼が言う。

「あびちゃん、竹馬の友がさあ、定年なんだよ、彼のために何か考えてくれないか?ん、ある研究所の博士なんだけどね、詳しいことは会ってから彼に聞いてよ」

それが始まりだった。

種市という鮨屋で会った。

何をしてるんですか?

なるほどお、それならこういうのはどうです。私はあるアイデアをその場で言った。

しかし、それには使えない。

ちょっと待ってください、それって本当ですか?だったら、こうしませんか?

私は、すごいぞこれは、海外も入れたら軽く数兆円産業になる。

私はまだ会社を経営していたけど、ソフトウェアの仕事も創れることになるから、ワクワクした。

「本当かよ」

「間違いありません」

私たちは、その後はFAXでやり取りしていた。そして立川の特許事務所にも数回出向いた。

ある日、いつもの鮨屋で会長が突然言い出した。

「あびちゃん、君ぃ、彼んとこに住みなよ。なあ、空いてるんだろ」

私は博士の都合のいい日に、この屋敷に呼ばれ、リビングで酒を飲みながら・・・ここに住むことになったのだ。

すぐ近所だけど、引越しはいつも辛い。

大型冷蔵庫、電子オーブンレンジなどここに備えてあるやつは捨ててしまった。洗濯機(ここにはなかったが、もう古いので私が買い換えた)も、オーディオ、エアコン、たくさん捨ててきた。

そのとき手伝ってくれたのが、今もここに遊びに来る、植木屋さんである。

ところが、私がここに引っ越すと決まってから、博士が他の大學から誘われてしまったのだ。

私たちの数兆円産業は頓挫した。

この発明から引越しまでの一連の騒ぎの間に、私は自分の会社を潰してしまっていたので、キャイン、キャイン。

ダブルパンチなのだ。

さてと。

2010年7月26日 (月)

ワールドカップ南アフリカその3成績編(50日間寝込んでましたから)

私は駅まで歩けるようになっても、日中は外に出ない。怖いからである。

しかし怖いのは、サムライブルー、岡田ジャパンだ。

岡田監督は「チョコマカ、ちょこまかとパスを出し・・・うんぬんかんぬん」といっていたはずだ。

しかし、次ぎの成績は、決勝トーナメントに進んだ16チームの中での岡田ジャパンの成績である。

出歩かないで、ほとんど寝たきりなので、知らなくてもいいことを知ってしまう。

パス成功率60%。これはなんと最下位の成績だ。パスを100回出せば、40回は失敗していることになる。

1位のスペインは80%を成功している。あれだけ鮮やかにパスを出し合っていたスペインでさえ20%は失敗しているのだからいいではないか?ということでは済まされないだろう。

シュート数は、16チーム中15位の成績だ。最下位はどこの国だったかは分からないが、日本のシュートの多くはゴールマウスの枠内に入ったものは数少ない。枠内に入った率だったら最下位かもね。

パスは通らない、シュートも打てないようでは、決勝トーナメントで勝ち抜けるわけがない。

しかし、多くのマスコミや、それに引きずられたサポーターたちは、しきりと岡田監督を褒め称える。

これほど怖いことはない。

これでは、何の反省にもならないのではないか?

果たしてこれでいいのだろうか?

寝てばかりでいる私でさえ、なぜこうも寝転んでいるしかできないのかと、情けない気持でいっぱいなのにさ。

こんなんじゃあ、アジア大会、ロンドンオリンピックの予選、ブラジルワールドカップの予選すら危ないのではないかと心配するのだが、ん、なにいいいいい?

そうだね、そうだ、そうだ、ワールドカップブラジル大会まで、私が生きているのかということだった。

こんな調子だもんなあ・・・どうなることやら。

だめだあ、どこに写真があるのか分からない。

なんてこったい、1年以上も写真について何もしていなかったら、どのフォルダに何があるのか分からない。

本体のUSBにUSBハブを繋いでいる。

USBハブには、3本のUSBメモリーと、SDカードとメモリースティックを差し込めるUSBグッズが繋いである。

そのSDカード用のフォルダが分からない。

なんてこったい。

こりゃあ、重症だ。

だいたい写真が多すぎて、名前もつけてないので、日付だけを追っているのだが、本日の日付が見つからないのだ。

どこにあるのだろう、デジカメの日付は今日になってるぞっと。

いましばらく・・・だなあ。

2年前蒔いたタネから育って開花したコスモスの写真を撮ってきました。

午前11時。

この時間に表に出るのは、多くの病気を抱えた私の場合、自殺行為に等しい。

しかし、なんとなく暑くない気がした。写真ぐらい取れそうな気がした。

どうしてだろう。

汗すらもかかなかった。その神経までもイカレてしまったということだろうか?

コスモスの花は予想通り、2つ目も開花していた。

それで2枚撮った。

ついでに、南の庭に回ってみようと思った。

すると、もう誰も入ってないのか、蜘蛛の巣が張りめぐっている。

私はうちわを持っていたので、うちわで蜘蛛の巣を取り払いつつ、奥へ奥へとススム君。

確か、梨がなっていたのを部屋から確認している。

もしかしてと思い、ゆうべ壊れたはずのデジカメを触っていたら、ひらめくものがあった。

成功。

もう、数年使ってない、デジカメが動いた。ケータイで写すのはどうも気に入らない・・・時代遅れの病人である。

梨の実がいくつもあった。

あはははは、出来損ないのジャガイモみたい。

私は嫌な予感がしたので、アップにする間もなくシャッターを押して、急いで部屋に戻った。

もう少し長居したら、倒れていたかもおおおお。

さて、どうやって、写真をアップするんだったかなあ・・・すっかり忘れてる。

うまくいったら、すでにあなたはコスモスの花を観てるはずだ。

2010年7月25日 (日)

2年前に蒔いたコスモスの種の不思議さよ

私は、最近、早朝と夕方に片手で持つ鍋に水を満たし、階段を下り、庭に出ている。

なぜかというと、雑草をむしっている時に、見たことのある発破が10本ばかり延びているからだ。

これはなんだったろうかなあ・・・すると、オレンジのツボミがついた。

そして開いたら、コスモスだった。

なぜ?

同じく蒔いたサルビアは秋には花を咲かせ、越冬までした。去年の2月頃まで咲いていたのだ。

コスモスはだめだった。

それが、今年になって、突然咲き始めたのだ。

1本にいたっては、人工マットの隙間から芽を出し、そして、ツボミをつけ、明日にも花を開きそう。開花すれば2つ目になる。

2年前、そして去年はなんだったのだ?あ、写真を撮ってくればよかったかなあ。

誰かがいると、めったにかに刺されない私でも、独りで庭に降りると、蚊に刺されるのでジャージを履いた。

ショートパンツ出水をやっていたら、両足を20数箇所も刺されていたからだ。

だが、鍋を持つ左手は数えて見ると、6箇所も刺されているではないか。

手首の血管が見える側の1匹は慌てて叩き潰したのだが、反対側の見えない甲の方は見事に刺されている。

悔しい。

しかし、コスモスがたくさん咲き、サルビアもあとに続いてくれれば嬉しさもひとしおだろうなあ。

アボカドはすでに3m近くまで大きくなった。

倒れそうなので、横に伸びている枝を数箇所剪定したが、もう1本のアボカドはまだ1mにも満たない。

どうしてなんだろう。同じ大きさで、ペットボトルで水耕栽培した、私が食べたアボカドの種から30センチぐらいまで伸びた、元気のいいやつを選んで同じ日に植えたのに。

不思議である。

ワールドカップ南アフリカその2(50日間寝込んでましたから)

楽しみはワールドカップだけだった。

日本の思いもよらぬ活躍に、大いに楽しんだものだったが、できれば、もっと正確なパスと、攻撃が欲しかったなあ。

帰国後の記者会見には、思わず涙が出てしまった。外に楽しみがないからなあ。

しかし、地上波で、ワールドカップの決勝戦を放送しないのはどういうわけだ?

参院選挙の報道ばかりをやっている。

フジにいたっては、なんと、F1の放送をやっているのだから、CATVをはずされてしまった、自分を呪わずにはいられない。

ガーナVSウルグアイの試合には驚いた。

ガーナの決勝ゴールとなるはずだった、ボールを、9番の選手が両手でブロックしてしまった。もう独りもそうなるべきだったろうが、9番はレッドカード一発で退場となった。

しかし、ガーナのエース(ギャンだったかなあ)のPKで試合は決まると思われたが、なんと、なんと、この決勝PKを外してしまい、PK戦へともつれ込んでしまった。

その外したガーナのエースがPK戦の1番手で、ゴールを決めた。

おい、おい、その前のPKを決めておけよなあ・・・。

あげく、ウルグアイがPK戦を制し、ベスト8を決めたのだから、PK戦は恐ろしい。

私は、痛みをこらえて、水を飲んだ。

食道がエレベーターになった(50日間寝込んでましたから)

3日で百数十回も吐くと、胃まで落ちた水は、上に参りマースと、また口まで戻り、外にでる。

すると、胃から食道、のどがやられてしまう。

特に食道と、のどは辛い。胃液が混じってくるからだ。

水を飲むたびに、のどは激しく痛み、水が上がってくるたびに、食道のあたりから、胸までに激痛が走る。

そうまでしても、また戻される水だとしても、飲まずにはいられなかった。

しばらくは、モノを食べたり水などを飲み込むたびに息がつまり、死ぬかと思った。

そうまでして、なぜ、モノを食べ、水を飲む。

戻しながら、ベッドに倒れ込む。

座らずに倒れこまないとならない事情があった。

今は、のどや食道の痛みはなくなったが、あちらこちらの筋肉痛は残っている。

そうだろうねえ、普段は使わない筋肉を、違った方法で使っているのだからなあ。

2010年7月24日 (土)

ワールドカップ南アフリカ(50日間寝込んでましたから)

しかし、このワールドカップを観るまでは死ねない。ずっとそう思ってきた。

そのワールドカップの期間中、私はほとんどベッドに寝ていたのだ。

横たわってテレビを見ていたと言う方がいいかも。

痔がひどくなるまでは、ゆっくりだけど歩けたので、近くのコンビニぐらいには行けた。

今回の件で病院へ行ったとき、医者に尋ねた。

「痔がひどいって、切れ痔ですか?」

「とんでもないよ、脱肛してる!」

確かにそう聞こえたが、脱肛?なにそれ。

「こりゃあ、ひどいよ、痛いでしょう」

ワールドカップの試合を見てる最中にも催してくる。でも便秘なので、何もない。

それでも痔のせいなんだろうなあ、いつもすぐに催してくる。

がまん、がまん。

すると2,3分で治まる。

そういうjことをしていると、ますます便秘はひどくなった。

しかし、面白い試合を観ることはできた。ハーフタイムには必ずトイレへ。

しかし辛い、観戦だったなあ。

しゃっくりが2日間(50日間寝込んでましたから)

吐き気が突然止まった・・・気がした。

その代わり、しゃっくりが出だした。これはきつい。

水を飲めば、止まるだろうと、恐る恐る飲んでみる。

ほっ。

吐かないぞ。はかない人生ってやつだね。がははは、お墓は福岡に持ってるけど。

しかし、しゃっくりは止まらない。どうなってるの?

また水を飲む。すると、たまに吐くんだなあ、もう嫌になる。

しゃっくりがでてる間はものを食べる気がしない・・・いや、食べることが出来ないのだ。

食べる、しゃっくり、水を飲む、しゃっくり、そして吐く、さらにしゃっくり。

どうなってるの?

吐くのは確かに、水を飲む回数の1/5ぐらいから1/10、1/20へと減って行き、そして吐かなくなった。

でも、2日間もしゃっくりをしてると、これまた眠れない。

私は吐き始めて、3日目にバナナを一口。

4日目に、そのバナナの残りを食べた。吐き気が終わり、しゃっくりが出ているときだ。

5日目にバナナを1本食べることが出来た。

しかししゃっくりが終わり始めたら、今度は喘息の出番だ、咳が出始めたのだ。

咳をすると、その作用で、便秘なのにトイレに行きたくなる。いや、吐き始める前からずっと、トイレには行きたいが、行っても何も起こらない。

痔がひどくなるだけだ。これはまたきつい。

私は、5日間は眠ることさえ出来なかった。

もう決断しなくてはならない。

しかしその日は、かかりつけの病院は休院日である。

不幸。

翌日病院へ、隣人に連れて行ってもらう。

しかも、トイレには行きたいので、本当にそうなったらどうしよう、私は、数年前に入院してたとき(病院のベッドの上で意識不明のとき)、いつの間にか紙おむつを履かされていた。

そのときの残りの半分を持ち帰っていたのを思い出し、恥ずかしながら、紙おむつを履いてから、普段なら5分で行ける内科まで、10分をかけて歩いた。

痔が痛いのと、時折、催してくるが、ただ痛いだけ。

やっとの思いで、内科にたどり着いた。

すでに内科には電話を入れている。

初めは、歩いていける自信がないので、隣人に薬をもらいに行ってもらう予定だったが、がんばってみようと、歩き始めたのだ。

怖かった。

私は、診察を受け、血液検査を受け、薬を処方してもらったが、ほんとうに辛いのはこれからだった。

受診中は夕立がひどかったらしいが、私は空を見ていたので、「なあーに、降っても30分だよ」そう、隣人に告げ、雨が弱まり始めたので、薬局へ行き、薬をもらったのだ。

帰りは30分もかかってしまった。タクシーが通るような道ではない。立ち止まり、塀や電信柱に寄りかかって、休み休み歩いた。

さて私はどうなるのだ?

2010年7月23日 (金)

真夜中の夕立?

庭の樹木らが、バシャバシャトうるさい。

ベランダを叩く水の音。

「え?もしかして雨?」

確か、ミクシーの【呟き】の中に、「今雨が降っている」というのがあった。でも22時ぐらいではなかったかなあ・・・私より、はるか西に住んでるのではと普段の記事から憶測していたが。

その雨が、たぶん午前1時から2時30分ぐらいの間ではなかっただろうか?うとうとしていて、冒頭の音で目が覚めたのだ。

いかーん、洗濯物を干している。

私は大急ぎで、南のベランダに行き、バスローブ、バスタを数枚。その他、下着の類を取り込んだ。

激しい雨だった。まさに夕立のそれである。

時間にして30分間もなかったと思うが、ひんやりとした空気が庭から入ってきている。

これで、今日の気温は下がるかもぉぉと思ったが、朝日が昇るころにはぐんぐんと上昇していた。

ほんのお湿りということだけど、まあ、よかった、よかった。

2010年7月22日 (木)

3日間で水を15リットル,ジュースを2リットル

しかし恐ろしい話である。

ペットボトルに冷やしておいた水、3日間で15リットルを飲んじゃあ、全て吐いた。

グレープフルーツジュースは2リットルである。

本当に寝てる暇なんかなかったのである。

まいったね。

3日間、吐きっぱなし(50日間寝込んでましたから)

とにかくひどかったなあ。

水を飲む。すると2秒もしないうちに戻してしまう。飲んだ水+胃液である。

胃液が苦いのでまた口をゆすぎ、水を飲む。

すると、また吐く。

洗面所まで間に合わないので、ビニール袋に吐く。

よせばいいのに、のどが渇くのと苦いのとで、また水を飲む。

ずっとこの繰り返しで、できるだけ我慢しても、のどが渇く。

当然である。

飲んだ水分は全て戻してしまうのだから。

眠れない夜の翌日、麦茶にしてみる。

やはり同じだ。

配達してもらっていた、ヨーグルトも全て戻してしまう。

私は、隣人にグレープフルーツジュースと、バナナを買ってきてもらった。

これも同様。

2日が過ぎ、依然として飲んだらすぐに戻す。

グレープフルーツジュース+胃液なのだろう、吐くものはすべてが黄緑色だ。

もう、ビニール袋は2袋が、たっぷん、たっぷん。

まだビニール袋に間に合えばいい。思わずタオルで口を塞ぐが、カーペットにこぼれ落ちる。

あるいは、ビニール袋に穴が開く。

もう大変だ。

部屋中が胃液の臭い。

この間私はずっと便秘をしていた。

便秘がこれほどきついとは・・・辛い。ただでさえ、吐きまくってるのだから、トイレは必要なかったのかも。

そして3日間。私は、基本的に飲まず食わずという結果になっている。

隣人が作ってくれた、好物の長崎ちゃんぽんはキャベツの切れ端を1枚つついただけ。

水を飲むので、すぐさま洗面所へ。

4日目になった。正確に書くと、3日目の途中からなのだが。

汚い話で申しわけなかったけど、4日目からはまた別なことが起きる。

私は、5日間の飲まず食わずを経験し、しかも眠れないことになるのだ。

じゃあ、興味がある方は期待しててね。

2010年7月21日 (水)

アル中の平均死亡年齢は52歳だそうで。

私はそんな気はなかったのだけど、医者の誘導尋問どおりに答えていたら、がははは、【アルコール依存症】と診断された。

質問例1

「何か動物臭いようなにおいはしませんか?」

答え1

「(あなたの息が臭いけど、ここは病院である、やたら消毒臭い)動物の臭いかどうかはわかりませんが、臭いですね」

質問例2

「目の前に何か飛んではいませんか?」

答え2

「(古い角膜が落ちてるはずなので、本当は誰にも見えるはずだが、小さなゴミのようなものが飛んでるように見える。飛ブン症だったかなあ。慣れてしまってるので見えてるのに見えないかもね)え、そういうのは誰にも見えるのではありませんか?」

まあ、こういうあほらしい質問が繰り返されるのだが、結局のところ、【どうでもいいや】という気持が出て来るのを期待してるのかもしれないなあ、ばかばかしいので、ついつい、演技してやる。それで、【アルコール依存症】と確定されるのである。アルコール依存症は現在の医学では決して治らないそうで、私は同じ年の医者から、いろいろと話を聞いた。

その彼がはじめに言ったのだ。

「あなたはマラソンで言うと、ゴール真じかのトラックに戻ってきたようなものですよ。52歳ですからね、これがアル中の平均死亡年齢です」

本来なら、52.N歳というべきなのだろうが、まあ、どうでもいいや、とにかく、私は53歳まで生きる、そう決めたのは、3年前かなあ、まだ49歳になってなかったような。

その私も、53歳を迎えるこの10ヶ月は本当に辛かった。直近の2ヶ月は冗談じゃなく、死ぬと思ったね。

じゃあ、この続きはまた。

とりあえず、53歳になりました。おめでとうおおおおおおおお。

2010年7月20日 (火)

50日ほど寝込んでました。

5月末に、MIXIで連載中のリレー小説をアップするつもりだったのに、突然の体調不良。わけが分かりませんでした。たまに力がでても、パソコンを触るほどの元気はなく、同じフロアに住む連中に、生活必需品や食糧の買出しを頼み、彼らが作ってくれる料理を食べたりして生きながらえていました。

先週、彼らに病院に連れて行ってもらい、血液検査を受けました。金曜日に医者から電話があり、「至急、CTスキャンを受けてください。あなたのすい臓は標準値?30(意味がわかりません)なのに、75もあります。すい臓がんの恐れさえあるのです」

それで、タクシーで河北病院へ。結果はいつでるのやら。そう思うと、アップしておくべきだった、リレー小説を早く、次の方へ渡さねばと。いかがその内容です。

風のバトン In the Wind 第三章 第41話

~それぞれの過去

木下は大急ぎで身繕いをしていた。

ベッドで毛布に包まっていた弥生が毒づく。
「どうしてあなたは、いつも、今井、今井君なのよ、私はどうなるの?」
「じゃあ、後から来いよ」
「いやよ、あんな店なんか!私は行かないわよ」
「じゃあ、勝手にしろ、俺は急ぐ」
「私、チクるわよ、あなたが今井君とお酒を飲んでるってね!」
「なんだよ、それ?」
「未成年二人が、居酒屋でお酒を飲んでるってね、そうしたら、陸上部だけじゃすまないわよ、せっかく出場を決めた、神宮野球大会も出場できなくなるわよ。いいの?」
「誰が未成年なんだ?俺も今井も中2の時ダブってんだよ、俺たちは、おまえらよりひとつ上だ。同じ病院で、今井と知り合ったんだ。俺たちは10ヶ月以上も入院してた、わかるか、俺はわけのわからない病気でずっと入院生活してたんだ、いつ退院できるかもわからない、そういう時に今井と知り合った」

ドキリとした。そんな話は誰からも聞いていない、どうしてそういう大事な話をしてくれなかったのよ、私たちってどういう仲なのよ、弥生はパニック状態に陥っていた。

「悪いのは俺なんだ、今井はちっとも悪くない。なのに、4継決勝で10センチ差で優勝できなかったのは、あいつ自身のせいだとずっと思い込んでいる。俺が行かなきゃだめなんだ、わかってくれ、弥生!」
「優勝できなかったけど、全国大会の出場権を手に入れたんだからいいじゃない!それに、野球の神宮大会。どうすんのよ、うちの大学はいまや、旬の大学なのよ、今井、今井って、そんな場合じゃないでしょ?」

「ばか、今井がいなけりゃ、あいつのキャラが必要なんだ、特に俺にはな!」
木下は、わかってもらえない気持ちをなんとしてでも、弥生には伝えたかった。

「野球はなあ、3回に1度でもヒットを打てば1流とみなされる、失敗が許される競技だ。だけど、4継は違う。一人でもミスすれば、それで終わりだ。100%の力を出してもだめななんだ。それプラスアルファが必要だ、だからこそ、4継は面白い。今井のやつがいまのまんまんじゃ・・・・、何も面白いことはないんだよ」

「そんなこと、私の知ったことじゃないわよ、私には純君、あなたがいればそれでいいの」

木下はスターターの藤村からバトンを1位で受け取り、余裕で今井にバトンを渡すはずだった。スキップ♪スキップ♪ラン♪ララ~ラン♪♪気分で木下は走っていた。他大の選手はみんなエースだったが、いつも堀井らと走ってる木下にしてみれば、スローモーションの走りにしか見えなかった。

しかし、今井が木下からバトンを受け取るための助走の目印にトラックに貼っていたテープに木下のスパイクが引っかかってしまい、木下は大きくバランスを崩した。すでに助走を始めていた今井は、木下からの「ハイ!」と言うバトンを渡す合図が聞こえないので振り返り、しかも走るのを止めた。木下が倒れそうになっていたからだった。今井が木下からバトンを受け取ったときには、すでに3人の走者がアンカーを目指して走っていた。

今井は泣きながら走っていた。必死で走ろうとしても、手足のバランスが悪い。最高の走りには程遠く、アンカーの堀井に4位でバトンを渡したが、その差を縮めたものの1位とは10m近くの差があった。「任せておけ!」そう言うと、堀井は信じられらない速さで、2人を追い抜いた。しかしゴール直前でわずか10センチ差で関東2位に終わったのだ。ゴールがあと5m先だったら・・・。

今井の貼った目印のテープの接着が悪く、浮いていたらしい、その浮いたテープに余裕たっぷりの木下は足を取られ、よろけてしまったのだ。普通ならあり得ない走りだった。倒れそうになったそのときに、今井が戻ってきて、バトンをかろうじて渡したが、木下はそのまま、コース上に転倒してしまった。
「行けええ、早く行けえ」
木下は倒れたまんま、今井を追っていた。そして今井からバトンを受けた堀井の走りは凄まじかった。木下の位置からでは、ゴールへ堀井が先にゴールしたかに見えたが。

「弥生、俺たちは中2のときからの進級できなかった落ちこぼれ組だ。ただ俺たちは走るのが速く、野球はうまかった、だけどその分、浮いた存在だったんだ。友達など同じ学校にはいやしない、高校でもそうだった。ひとつ年上だとばれたとたんに一人ぼっちだ。今井がいなければ今の俺はいない、今井だって同じだ。俺が行かなきゃ、あいつも俺もだめなんだよ、だから行く、来るなら来いよ」
「いやよ、あんな店なんか!誰が行くもんですか!」
「おまえ、あそこに行ったことなんかないだろう?なぜ嫌がる?」

弥生は、靴を履きかけていた木下めがけて、枕を投げつけた。
「わかったよ、勝手にしろ、じゃあな」
木下は、ドアを開けて出て行った。
「あの店は、私の実家よおおおお・・・」
ドア越しに、弥生が叫んだ声が聞こえた気がした。

弥生は泣いていた。
「私は中学のときから、あそこで裏方を、料理をしてたのよお、遊びなんか知らなかったわ・・・高校のときはカウンターにも立ったわ、嫌な客にもお世辞を言ったり、お酌をしたことさえあるよおおお・・・同級生のみんなは遊んでいた、手の指が荒れてて汚いとからかわれても、お母さんには言えなかった。私には辛かったけど、一人で私を育ててくれたお店しかなかったのよ・・・大学に行くまでの我慢よ、大學へ行ければお金は入ってくるから、なぜかわからないけど、お母さんはそう約束してくれた。私には辛くて嫌な思い出しかないのよ、あんな店ええ・・・・・でも、・・」

一瞬、木下には、弥生泣き声が聞こえた。しかし、弥生の悲しい過去の叫び声は木下には伝わることはなかったのだろうか、なにをバカな・・・そんなことがあるわけがない、プルプルと首を振ると、今井が飲んだくれてるらしい、コーチや監督、OB達のたまり場になっている、いつもの店へと走った。

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